コロナの影響で教育のかたちもだいぶ変わってきています。
東大や京大などは、2000年代からMOOCSなど海外有名大学との協業で進めてきていますが、あくまでアカデミックな進み方。
今回の世界的な変化で、社会の側の学びに対する姿勢が一気に変わったのではないでしょうか。
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終わりが見えない 将来が見据えられらない
人間の努力や頑張りでどうにもならない部分。または「社会」という個人の動きではどうにもできない部分。
今年はそういうことが多く起きています。きちんと計画立てても、予定どおりには行かなかったはじめてのことが多かったのではないでしょうか。
冬の乾燥時期に第2波、第三3波が来たら。
医療体制が崩壊したら。
そう考えたらどこの学校選んだらいいのか、どんな職を選んだらいいのか、はっきりとした将来計画ができなくなるのではないでしょうか。
大人であればなるべく在宅でできるような仕事のスキルを身につけるとか。
でも学生時代の場合は、不登校などの経験がなければ一般的な進路として、普通の通学制の選択肢しか主にリサーチしていないのではないでしょうか。
通信制という方法で、密の機会を減らす
いままで不登校や他に芸能などの目指す夢がある場合に主に活用されてきた通信制高校という方法ですが、「ひとにあまり会いたくない」ということが優先度で選ばれてきた面も密かにあるかと思います。
学校が苦手な子のなかには、別に勉強はきらいではない子が多いです。単に「学校」や「こども」のひとの集まりが苦手だったり、人に酔うタイプであったり。
マイナス面として捉えられがちですが、それはそれぞれのタイプであり、勉強ができて卒業できれば、ほんとうは個人の選択の自由のはずです。からだや心に負担をかけずに勉強に集中できる環境を選べることが一番「勉強自体」に効果的なはず。
このマイナス面として捉えられてきた、通信制の「あまりひとに会いたくないタイプ」でも通えるという点が、いまソーシャルディスタンスが必要とされている時代にマッチしたかたちとなってきているのではないでしょうか。
もちろん、スクーリングに何日かは行かなければなりません(高校の場合)。しかし、毎日登校のスタイルに比べれば工夫の仕方はいくらでもあります。
ましてや通信制大学であれば、通信制高校からでも目指せますし、高卒認定からでも目指せます。仮に特修生制度を使って中卒のかたちから頑張ることもできます。(相当の努力は必要ですが、機会としてゼロではないということ)
学校も収益のためにオンラインへチカラを入れ始めた
学校といえども、人が来なくなれば運営できなくなるので、ニーズとしてオンライン化し始めています。海外の方が反応はやはり早くて、今回の休校騒動以前からオンラインでの学位が取れるシステムなどは少しずつではじめていました。
海外へ行けない、ということはグローバル化が停滞するような気もしますが、逆に海外の情報をオンラインで仕入れられる部分についてはやり取りが増してくるのではないかと思っています
海外のコンテンツを日本でも受けられるということは、日本にいながら海外のものを学べる流れがいまよりスムーズになっていくと思われます。
海外に運営があるものに参加するのは、英語情報をある程度リサーチするようにしていないと難しいですが、日本支社・日本代理店ができてくれば話は別。
コンテンツは海外のまま、手続き等は日本でできる。そうなるとより海外のものが学びやすく、逆に日本独自の知識やスキルも今後コンテンツとして重要視されてくるのではないかなと予想しています。
ビジネスでも勉強でも必要になるスキル 伝わるように書くという技術 エッセイ・クリティカルシンキング
海外のコンテンツが入ってきやすくなるということは、日本独自の「場を読む」「行間を読む」は小説的なテクニック以外の日常の場所では通用しなくなる可能性があるということです。
文化的背景の違う人に伝わるように文章を書くスキル。
遠慮・謙遜=意見がない、と捉えられる世界でやりとりしていかなければならなくなります。
もちろん、日本の「読む」スキルはそれはそれで有能なスキルです。世界に合わせてそれを無くする必要はないと思います。ただ、その良いスキルを伝えるためにも、自分の意見を「伝わるため」に「わかりやすく」書く・話すという能力はこれから強化していかなければならないスキルなのではないかなと思います。
在宅ワーク業界が発展してきたことで、webライティングなど「書くこと」そのもののスキルが見直されつつあります。乱立したライティング案件のおかげ(?)で質が上がってきたこともあるのではないでしょうか。
海外通信制大学での勉強経験で学んだこと わたしたちは思った以上に論理的な文章を書けない
・作者のこころは?
とか
・このとき太郎くんはどう思いましたか?
みたいな国語の問題で「よむ」チカラは鍛えられた半面、自分の考えを書くエッセイのようなものが日本人は圧倒的にテクニックがないのだなぁということ。
他人事ではなく自分のことを含めてです。毎週のタスクをこなそうとしたとき、アカデミックな勉強の難しさはそれほどでもないのです。それで手が止まるわけではない。
ただ、意見を文章化する、という習慣化がわたしたちにはない、ということを実感して、それが日常になるまでの労力をとても使う、ということを感じたのです。
欧米の国では、小学生からそういったカリキュラムを組み込んでいるところが結構あります。ホームスクールの小学生用コンテンツでさえ、日本人のおとなの英語勉強、エッセイ勉強に役立つと思います。(こんど別途まとめてみます)
わかりやすい書き方、論点を絞った書き方、批判や愚痴ではなく、クリティカルシンキングのうえでの「意見」としての文章。
そういう文章が「卒論とか特別なときに書ける」のではなく、日常のレポートやディスカッションで書けることが今後必要になってくるのでしょう。
文法は中学レベルで構わないが、確かに運用できる英語力
もうひとつ必要になってくるだろうと思うのが確かな語学力。
同時通訳者や、国連関係の文書の翻訳者などになるのでなければ(医療や法律など精密さが必要な分野での文書はもちろん別の話ですが)そんなに細かい語彙や長文理解は必須ではないような気がします。
中学レベルの英語でも、基本的な文章は一応網羅しているわけで、それを100%ちゃんと理解して活用できていればいいのではないかと思います。
自分はちょっと文法をおろそかにしてしまってきた部分があると思っており、Uopoepleでの文章作成にエネルギーを取られ、生活と並行してやることができませんでした。それだけが原因で両立できなかったわけではありませんが、やっぱり基本を一番大事にするべきなんだ、ということです。
応用も基本がしっかり揺るがないからこそできる。余分な力をいれずに済む。
昔から英語の点数、文法の点数も取れるほうだったので、なんとなくやり過ごせてきてしまった。でも、実際仮定法とか、aとかthe とかSVOCとか助動詞とか、しっかり考えて疑問に思ったことを悩む機会がなかったのです。
実際、ここはなんでmay なんだ、なんでcan じゃないんだ、とかホントは愚直に考える必要があった。基本をもっと突っ込んでみてみる必要があったと思っています。
感覚でやってきてしまったから、土台が緩く、応用にエネルギーがかかる。難しい語彙なんて知らなくていいから、確かに営業できる英語プレゼン力や、わかりやすい構成のエッセイを作り出せるほうが「伝える」という目的にはかなっている。
英語に限らず、「使いこなせる」ように身につけることが大事で、ただ知っている、だけではダメな時代。使いこなせない=知らない、という評価になる。
良くも悪くも、実力主義。スコアがどうのより、運用して、実際にものごとが進むことが価値。
応用力は実践で身についていくものだと思うので、学生もこれから英語を学び(ブラッシュアップも含め)始める人にとって大事なのは、もしかしたら「愚直さ」かなと最近思っています。
基本をただただ丁寧に。伝統芸能と同じかもしれません。基本を無意味だなと思っても積み重ねることで、応用が自然にできたり、新しいアイディアに繋がる。基本なしに一足飛びはいつの時代も実力には結びつきづらいのかもしれません。
まとめ クリティカルシンキングと英語の学び直しでこれからのオンライン時代に備える
飛行機で国境は越えないけれど、オンラインでボーダーレスな時代に語学力はいくらAIや機械翻訳が進んでも重要なものとして残ると思います。
微妙なニュアンスが必要なものや、発する言葉としてではなく、表記から読み取る「理解する」ための言語能力としても、ちょっとした違いがわかる言語力はかえって重要になっていくのではないでしょうか。
英語以外の国の高等教育もオンラインで学べるようになるかもしれません。その国の言語に精通していれば、多言語化される前にいち早く情報を得られたり学べたりする。
日本にはないような仕事やコンテンツも、世界にはあるかもしれない。そういった自分だけに必要な情報にリーチする確率が増えるというのも言語を習得するひとつの楽しさかと思います。
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