フリースクールなどに対する支援が決まったり、不登校やホームスクールなど多様な学びが一般化しつある風潮になってきましたが、個人的には「勉強しなくて大丈夫」という感覚ではありません。
「学校行かなくて大丈夫」となっていくことは、一概に学校スタイルの学びが合う子ばかりではないのでいいことだと思います。
ただ勉強は別。教科学習ではなくてもよいし、自分の得意な分野だけでもよいのだけど、「学びすすめる」ということは大事な気がします。
学校の権威がなくなると学歴が重要視されてくる
学校以外の学び、が認められ始めると学歴って関係なくなるんじゃない?って思ってしまうのですが、仕事に直結する最終学歴が重要視されてくると考えています。
小・中・高というより、そのうえの高等教育。
義務教育ではなく選択して学ぶほう。
ホームスクールでギフテッドだとして、模試やIQなど数値で示す機会がなければ、どの分の能力があるのか客観視できないのですよね。
今までは数値偏重というか、成績が高ければ人間性も高い、というような使われ方だったので数字にイヤなイメージはありますが、学校以外での能力、なかなか客観的に示す機会がありません。
海外のようにポートフォリオが一般的でもまだないし。
そうすると、「~合格」「~卒業」という学歴が一番わかりやすいという流れになっていくと思うのです。
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO53006550V01C19A2SHA000?n_cid=NMAIL007_20191208_K&s=5&fbclid=IwAR3ZVCtaH4eKU5VGO8HY3qbntQ0e7Ju_KnSXx62nc_JnDseloGinYU8Jppc
ホームスクーリングからの進学を進めるわけ
学生生活・青春をエンジョイしたいのであれば義務教育も楽しいところもあると思います。
映画やアニメで出てくるような青春、楽しそうですよね。
そこにこだわりがないのであれば、ホームスクーリングからの進学って効率的ではないかなと思うのです。
小・中・高行かずに、2ヶ月くらいの勉強で高認をとり大学を行った方のお話しなのですが(もちろん進学先によっては内申や出席日数の関係してくるところもあるでしょうが)12年でやる勉強を数ヶ月でこなして高等教育へ進む道も「ゼロ」ではないということ。
選択肢がある、ということは工夫や努力次第でどうにかなるということ。
だから図らずもドロップアウトしてしまった人も悲観せずに先を考えられるよ、ということを伝えたくて書いています。
学校社会の「努力」とは違い、逃げるなという拘束ではなく、最終目標(たとえば大卒になるとか)だけあきらめなければ、達成するために方法をチェンジしたり、自分に合う方法を選んだりしてもそれも「創意工夫の努力」です。
進んでいくうちに最終目標だって変わることはある。それ自体だって悪いことではありません。
これからの時代、「生産的なドロップアウト」はステータスになると思う
工夫次第ですが、2、3ヶ月で大学を受験するという選択肢があるとわかったうえで、小・中・高の12年という長い歳月をどう活かすか。
たとえば医学部だとか薬学部だとか、ある程度まっすぐ義務教育コースが一番近い分野を目指しているのであれば、学校が一番近道でしょう。
特に決まっていない、別の夢がある、といった場合、こどもとして遊び倒すにしても、興味のあることを学び突き詰めるにしても、社会に早く出て稼ぐにしても、有効活用しようと思えばかなりの時間です。
教室のなかだけで学ぶのか、自然と戯れるのか、それは各家庭によって選ぶものは違いますが、ホームスクールは「学び」もしながら並行してできるという点が効率的だと思っています。通信制高校も近い感覚です。
多様な学び、と鼓舞する以前に、経済的感覚で「効率的」なのです。だけど学歴主義は来ると思うから、効率的なホームスクールからの大学進学、という「学びを楽しむ」ことと「客観的数値」を両方同時進行していければと思うのです。
だから不登校からのホームスクールや、中卒からの通信制高校編入や、社会に出てからの社会人大学入学、バイトしながらの特修生。勉強だけではなく、社会に出たり入ったりしながらの「生産的ドロップアウト」して学びの場へ戻ってくることは今後ステータスになってくるのではないかと思っています。
だって経済コンサルタントや節約テクは合理的・効率的で称賛される。学びかたも効率的な選択肢ができる人は「ムダのない合理的なセンス」を持っているということ。
既成概念のままに在籍しているより、センスを認められる時代がやってくるのではないかなと感じています。