このニュース、2005年からというものの校長裁量の部分が大きかったり、そもそもそういうICTだったり、学びの多様化に関心のない校長にあたれば、保護者が働きかけてもなんら進まないまま転任、退任というケースも少なくない。
たまに理解のある先生に出会っても異動があったりすると、結局いちからやり直しのこともあったり。
多様になる学びに対処する制度や法案を考えるより、「一律学校へ来い」という制度を貫いていたほうが文科省も楽ですよね。「易きに流れてはいけない」はずでは。
Contents
易き、とはICT教育だけで出席日数となること?
実際制度としてはできていますが、あまり有効活用されていないですよね。
今回の休校のオンライン対策が進まなかったのは、こういう思想も遠因なんだろうなと思いました。
ICT教育で勉強する=学校へ行かない
ということは簡単、というイメージ。
学校で指示、計画、してくれることがどれだけ楽なことか。自律的に計画してモチベーションを保つことがどれだけ大人にとっても難しいことであるか。
そして、ICTが言われる以前には、たいていの「学校を選ばないこどもたち」の学びの選択肢はないに等しかった(保護者が積極的に探すタイプでなければ難しい)というのに。全部をオンラインでやろうとしてみればわかること。
学校へ行かないで家でやるから簡単なのではないのです。実際ひとによっては「学校いったほうが楽」(勉強に関しての意味です。環境やいじめ等を含めてではなく)と思うと思います。
おそらく不登校のICTが広く認められるようになると、通っている子もそれでいいじゃないか、とか不公平だ、とかそんな意味でこういう発言が出てくるのだと思います。事実、現場である校長先生とかからそういう発言をきくことが多々あります。残念ながら。
でもそれを成長の機会にはしないのですよね。学校って。こどもを「育てる」「教える」立場でありながら進化しないところが多い。
ICTでいいや、って仮に思う生徒が増えて不登校が増えるのであれば、それは学校に魅力がないからで、人はこどもでなくても、いつも比較して優先度を決めます。いくらオンラインが進んだって「やっぱり学校でリアルに活動したい」っていう生徒も休校中多かったはずではないでしょうか。
そのなかでやっぱり学校はダメ、という体調や環境の子がICTで出席日数を取ることは「易き」なのでしょうか、と感じます。
そもそもの学校システムからの問題かもしれない
ただ、これは「普通の進学できない」ともう違う道を模索している人にとっての教育の機会のはなしであって、どこかに進学を考えている状態でICTでの出席日数を確保したいと考えている場合はまた違うのかもしれません。
毎日学校行って出席日数で推薦、自宅でICTでの出席日数で推薦、とかあれば確かに不公平感は出てくるのかもしれません。じゃあ、全校にICTか学校か選べる、っていうようにしたら、って一般保護者は思っても、そうすると「不登校が増える」って話になってしまうのでしょうが、教育側としては。
そうすると、また別の問題があって、「不登校」って認識して、少ない進路の選択肢のなかからチューターなんてつくこともなしに上位大学狙ったりなんかする覚悟を決め(現状を認めて)偏見も感じながら頑張る学生と、通学していればとりあえず偏見もうけることもないし、名前書けば進学できるところを選ぶような場合、学校へ行っているほうが「易き」ではないのかって話も出てきます。
学校で勉強を頑張らなくても、それなりのところに落ち着く。
偏見は持たれることがない。学校行っているだけでエライ。
オランダのように、小学生から留年のシステムなどがあったらいいのかもしれません。ただ留年させるというのではなく、原因を突き止め、そのサポートもセットになっているがゆえですが。
でも学校が苦ではない人にとっては学校が「易き」だし、学校が苦しくてたまらない人にとっては、自分でスケジュールやモチベーション管理をしなければならないにしてもICTを選びたいわけで、
「易き」はだれかが言ってしまっていいことではなくて、環境によって違う相対的なものだと思うのです。
だから自分の家庭環境や想いに合わせて自分のためのキャリアプランを
このサイトでは通信制も結構すすめています。だからといってすべてがオンラインになればいいとは思っていなくて、環境上通信制を選ぶほうがキャリアを積み重ねやすい人もいるということ、そしてその選択肢は通学制と同等にある程度確保されているべきと考えているからです。
[pz-linkcard-auto-replace url="http://homeschooler.link/elearningmerit/"]通信制高校も簡単なスクーリングで単位取れたり、レポートとかも簡単に卒業できたりするでしょ?
と言われることもよくあると思うのですが、もしそれを指摘した人が「簡単に卒業したいなら」同じ通信制高校を選べばいい。
それをしないのは、普通校全日制でいることで、通信制のデメリットを受けたくないからだと思うのです。
どちらが悪いといわけではなく、デメリットを受けないために全日制に通う、も学校に毎日通わずバイトとかもしたいから通信制に通うも、それぞれの選択肢なだけで。
卒業するのが簡単というけれど、人は簡単なことにはモチベーション抱きづらいし、サポートや指示・管理をしてくれる人がいない状態で「自律的に」学習を続けることはとても難しいです。
明日の朝小テストで、○○点以下は補講で、ってある程度縛ってもらっているほうが、小さいタスクが見えて楽なのです。
そして、そこから通常の大学進学を目指そうと思ったときには、自力でレベルを大幅に上げていかなければなりません。そのまま普通に就職するとか、芸能活動をしているとか、であれば両立できる点で通信制が最適でしょう。
通常進学コースに行こうとしたときに、その分大変です。でもそれを理解したうえで、通学のマイナスが大きいときに、もしくは通学しないことのプラスが大きいときに選ぶ、ただそれだけの話だと思うのです。
それなのに偏見やマウンティングはまだ残っている。批判もある。でもそれは、ひとそれぞれの人生の選択であり、不倫のニュースと同じく他人(スポンサーのように関係あるひと以外)が口出すエリアではないはずなのです。
普通校いって、普通に就職できることで、そこで「楽」できてる。
通信制が悪いわけではないけれど、やはり学歴が重視されるようなところに挑戦しようと思ったときには弾かれる可能性がある。そこで挫折やさらなる努力が必要だったりする。
どこに力を入れて、どこではメリットを享受するかって、人それぞれなだけで、学校がうえ、不登校が下、全日制が大変で、通信が楽、ってことはなくて、それは一部を見ているだけで全体を見据えてないのではないかと思います。
楽はダメなの? 目的より「努力した」根性のあかしが重要?
もちろん、頑張ること・努力することは目標達成に大事。
苦労してこそ得られるものがあるのも本当。
でもそれは自分の内部から出てきたもので動くことがほとんどで、他人からの叱咤は一時的には有効でも、長くは続かない。
そして、仮に努力をしなかった結果は大人であろうとこどもであろうと自分にかえってくるわけで、外側から(人生に関わる家族以外の世間は)努力しろだの、楽してる、だの言う立場にいない。
それに「簡単になるように工夫する」ということはダメなのだろうか。
苦労して、努力すること自体が「目的」になってしまう瞬間ってないだろうか。苦労したから報われる、といったような。
たしかに努力や練習は裏切らないけれど、それは「目的達成のための」であり、県大会に出たいとか、○○に受かりたい、とかまず「目的が設定されている」もの。
苦労してない成功は成功じゃない、ような捉え方の風潮や根性を称える空気、まだまだ社会にあります。
私自身は、働きながら大学の学びをしたい、って思ったから、通信制大学を選んだわけで、大学時代というモラトリアム期は送っていない。
ある意味遊べた(楽できた)時代は普通にもう会社員をしていたわけで。入学が受験より楽かもしれないけれど、仕事との両立が楽なわけではない。
わたしは、入学の「苦労」は必要ないと思ったからそっちを選んで、卒業の苦労を選んだだけ。自分のライフスタイルに合わせて、ここは簡単に、ここは力を入れて、という人生設計のなかで「ラク」をすることは一種のライフハックで、問題は努力し続けることじゃなくて、目的にたどり着くこと。
その方法がいろんな工夫の組み合わせであることは、ズルでも楽でもなんでもないと思うわけです。自分の人生の時間をどう使うか、個人の問題。
もちろん、目的にたどり着くことだけが人生の目的ではないですよ。ただ、なにかを目標としたとき、どういうたどり着き方をするかは「努力一辺倒」でなくてはならないわけじゃないはず、ってことです。
この思考が学校のみならず、社会にも溢れているから日本は生きづらく、働き方改革のまえに「学び方改革」だろうなと感じています。